自己表現におけるエゴと本質
ブログを2つ書いたところで、思いがけず(必然的に)足止め。
さてさて、どうしたものか、と考えておりました。
というのも、私は「エゴを手放すこと」に取り組んでいるのに、それと同時に「自分を表現すること」をブログで始めてしまった訳です。
この2つをどういうバランスで体現していくのか、
これは改めて考えてみると非常に難しい。
あ~何故にこんなチャレンジングなことをスタートしたのだろう、
という気持ちと共に、気づきも生まれています。
もうちょっと詳しく書くと、
「エーテル塾」もそのお姉さんクラスの「エネルギーの学校」も、
自己の鎧を手放し本質とつながることに取り組んでいく場です。
24時間自己感情や思考を徹見することが求められ、「私」(かぎかっこ私)のかぎかっこを外していく。
エゴをどんどん薄めて(小さくして)より本来の自分に戻っていく。
こうしてインテグラル理論でいう「シャドウ」を、エネルギーのあり方も含めて徹底的に見ている訳です(もう一つの軸はエーテル体の鍛錬ですがこれはまた後日)。
エゴの欲望のままに自己表現することは簡単です。
「みんな、見て~。私、こんななのよ!」
「私、こんなことしてるのよ。よかったら一緒にやろうよ」
「みんな~、私、こんなにエゴを手放せたのよ!」
ディスってはいませんし、その感じはとてもよくわかります。
私も以前は気づかずにやってましたから。
SNSという自己表現の場は、自己顕示や自己憐憫を表現し承認や慰めを求める場となる訳です。
別にそれも悪くないですが、私はその世界に留まっていたくないし、
自己感情のムービングな世界に耽溺することから多くの人が脱出しなければ、
人類の先行きは危ういんじゃないかと実は思っています。
そして、こういう形の発信で満たされるのはエゴ、
「いいね」が沢山着いて喜んでるのも、
自分の正しさを強く主張していい気分になっているのも。
本質は特に関与していません。
そして、エゴを満たすための発信は何となくわかりますよね。
いくら「俯瞰している」と書いていても。
過去の自分のFB見ると、イタイです。
ということで、
いかにエゴに餌を与えないかを探求している私が、ブログで自分の経験を発信していく訳ですから。
なんという修行だ!
普段は「そんなものございませんわ」と影を潜めている私の内なる自己顕示欲や承認欲求がざわめいています。
由紀さんからは「全ての自分の感情の動き、発言、行動の奥にあるものを見ていくこと」と言われています。
どういう意図で私はこれを発言したいのか。
どうして相手に「間違っている」と強く言いたいのか。
反対に、なぜ自分の正しさを強く主張したいのか。
それらはすべて、自分の内面の反映。
ということで、「私はなぜこのブログを始めたのか」「何をどう表現するのか」を今更ながら考え始め止まってました。
さて、今の自分の内側を実況中継すると
私の内なるエゴは困ってます(私のエゴの声は体の前面に存在します)。
私の後ろの人は喜んでいます(これは「私」の外に出て俯瞰する人。=本質ではない。「書けばいい」という声と共にエゴが困ってるのを微笑んで見ている)。
エゴに寄らず後ろの人と共にいる時、背中からスペースが拡がり、そこには穏やかな静寂が現れます。そして感情的な揺れは消失します。
この静寂は心地良いものです。
きっとこの状態で書くのが一番いいのでしょう。
それに気づいたところで、今日はおしまいだな。
続く